東日本大震災、12年前の今日を回想・・・

 また、この日が廻ってまいりました。毎年のように当日の様々なコトが思い出されます。当日の午前中は、三男随行で板橋区内のとある高級住宅地へと赴きまして、ワンオーナー且つ3千キロしか走ってないと云う、まるで奇跡のようなマセラティスパイダーザガートを査定しておりました。クルマを敷地内のカーポートに何年も保管した状態のままで周囲の壁を工事してしまい、スッカリ出入り口の造作が変わっておりましたので、不動車を敷地のソトに引きずり出すのが困難な状態でした。その場での査定は諦めて「また出直してまいります」と御伝えし、練馬へと引き返してまいりました。その足で銀行にでも立ち寄ろうと云ったハナシだったと記憶しておりますが、運命の“午後2時46分18秒”には、ちょうど光が丘警察署前で信号待ちをしておりました。その時は三男が足にしていたメルセデスEクラスの車内に座っておりましたが、突如として始まった縦方向の揺れが暫く続き、それでも初めのうちは、二人で顔を見合わせて「ついにエンジンマウントでも逝ったか?(笑)」と冗談交じりに会話する余裕さえありました。しかしながら、その強い縦揺れは次第に振幅を増し、目の前の信号ポールがビヨンビヨンと弓なりに大きくしなっているのを目の当たりにして「コイツは、デカい地震だ!」と気付いた時には警察署内から数人の職員が一斉に玄関から飛び出してまいりました。一旦大きな揺れが治まったところで、信号が青になりましたんで、おそるおそる走り始めましたが、光が丘公園周囲の団地群や大きな病院など建物への被害は見当たらなかったものの、屋外に置いてある自転車などはほとんどが転倒した状態となっておりました。

 車内のラジオを点けて「一体ナニが起こったのか?」と情報を取ろうと思いましたが、“宮城県牡鹿半島の東南東130Km付近の三陸沖で深さ24Kmを震源とする地震”であると云った、後に分かる東北地方での甚大な被害(数刻後の大津波も含めて)までは心及ばず、専ら報道されるのは、東京とその周辺に於ける公共交通機関のパニックばかり。当日は15時に「Wさま」さんが契約のために御来店予定でしたが、携帯電話も通じずに思案しておりましたところ、都営地下鉄大江戸線の豊島園駅でどうにか下車出来たと仰る「Wさま」さんは公衆電話から御連絡くださいまして、こちらから駅までは御迎えにあがることが出来ました。

 当ブログの常勤コメンテーターで御馴染の「Wさま」さんは、阪神淡路大震災の際には大阪にお勤めで、その時の経験から公衆電話なら必ず繋がると思われたそうです。無事に御来店頂いて商談成立の運びとはなりましたが、「さぁて、今晩は(御自宅や会社へ)帰れるのか?」と云ったハナシとなり、諸々の情報を精査いたしますと、交通機関は完全にマヒしている様子。「今晩の予約が取れなくなる前に宿泊するホテルを押さえておこう」と、早速、一番近所のカデンツァ光が丘に電話をするも繋がらず、「それじゃ直接訪ねてみよう」とフロントまで駆け付けたところ、「地震の影響でエレベーターに問題が出ているかも知れないので、検査が済むまでは御予約をお受け出来ません」とのつれない返事。既に自分たちと同じように宿泊を求める客が数組来てロビーで待機しておりましたが、思案投げ首の体でした。それでも、その数時間後に当日宿泊OKの判断が下されて、無事にお泊りになられたのは僥倖でした。

 ホッとヒト息ついたところで、今度はヨメがドコに居るのやら連絡が付きません。彼女も“すべての公共交通機関がマヒ状態”の渦中に放り込まれていたらしいのですが、教習所の送迎バスなどをうまく乗り継ぎつつ、無事に当時の仮住まいアパートへと還り着いてくれておりました。

 その夜からテレビ報道とネット情報に釘付けの日々となりましたが、津波の被害が甚大であることや、福島第二原発のメルトダウンが報じられるに至り、案ずるは当時東北地方にお住まいだった「Sm」さんの安否。関係各方面にお伺いを立てておりましたところ、大阪のS上さんより「無事にお過ごしらしい」との情報が得られてホッとしたのも思い出されます。御本人から「プカプカ浮いてるビール缶(工場が被災したため)を拾い飲みしつつ糊口を凌いでる(要旨抜粋)」とのコメントを頂いた時には本当に安堵したものですが、ビトゥルボ系マセラティの繋ぐ縁が、想像以上にしっかりしたネットワークであることを実感するとともに、「このシゴトをやっててヨカッタ」とも心底思えた瞬間でした。

 今日のメカトリエも長閑で安泰でした。決してアタリマエではない平和な日々が、幾とせも続きます様にと願わずにはおれません(合掌)。
 

 それじゃー、また明日。

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9 Replies to “東日本大震災、12年前の今日を回想・・・”

  1. もう12年なんですね。地震、津波、原発メルトダウンと、暗い毎日でした。
    今朝も地震で叩き起こされて、ギョッとさせられました。
    首都直下型地震が予想されていますが、来てほしくないけど、来たときの備えもしなくてはと、少しは用意しているものの考えると不安ばかりが募るので考えないようにしています。対災害用の自家用車とか、首都圏外に住まいを用意するとか、、、考えてみたり、、、最低限の備えかな、まずは。

  2. 12年前の本日は本当にお世話になりました。
    時が経つのは早いですね。
    被害で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げる次第です。

  3. 当時は、仙台の事務所でデスクワークしており。
    激しい揺れに、事務所が倒壊するんじゃないかって恐怖でワタクシメのノミの心臓がバクバク鼓動したのですが、鉄筋の事務所は揺れに強くて助かりました。
    しばらく事務所の向かいの公園に待機しておりましたが、船に乗っているような感じで地面が絶えず揺れており、時折、「ゴゴゴッ」と言う激しい余震に見舞われ・・・震災の当日はずっとそんな感じでした。
    その上、雪が舞い始め急激に冷え込み不安を煽られたのですが、夕方16:00頃、会社を閉めた頃には晴れ上がり、夕日が差してなんだか爽やかな一時で。
    大渋滞の帰路、ラジオで不吉な報道の数々を聴き。
    自宅にたどりつたものの、余震が怖くて毛布にくるまり、ずっとNHKラジオを聴きながら車中泊。
    もう、12年かあ。
    携帯電話が繋がらない上に車載充電器を壊してしまい、携帯電話の電源をOFF。
    数日後、携帯電話に山ほどメールが送られてきて、かろうじて確認出来た盛岡のYさまのメールに「無事です」とだけ返信。
    その知らせが、たこちゃんにも届いたようで。
    その節は、ご心配をおかけしました。
    多方より、私自身では無くビトルボの無事を案じる報をいただき、ありがとうございます。
    何しろ、ビトルボを停めていた場所だけ津波が来なかったのが幸いで。
    しかしながら、その後の仕事ストレスがたたり、当時のRyoさんは精神崩壊を避けるべくSmさん(仙台の万吉)に改名。
    シルバートライデント仮面が誕生したのであります。

  4. 通っていた女子高に避難していた娘を拾いに、横浜駅東口から沢渡を目指していたところ、鶴屋町交差点の下を流れる運河を、真っ黒な津波が遡上していく様を目にしました。
    津波を見たのは、後にも先にもその一回のみですが、底知れぬ恐怖を感じた瞬間でした。
    もう12年…早いものですね。

  5. 関西圏在住なので、当日(勤務時間中)は「地震とは認識できないゆっくりとした横揺れ」しか感じず、仕事場の吊り下げ型のモニターが、誰も触れていないのにゆらゆら揺れ出したり、患者と医者が同時に「めまい」を訴えたりと、何が起きたわからない状態でした。
    速報が流れ出して、東北がとんでもない事態になっていると知ったのは、数時間後の話でした……

    貴重かつ、緊張に満ちた体験談の後に大変不謹慎ですが、スパイダー・ザカートがどうなったのか気になりました(オイ)

  6. 本日はエアホルモンありがとうございました。
    来月は遂にリアル開催!という話になりプチ興奮状態です(何に?

    震災の記憶はどうしても薄れていきますが、忘れてはいけないものと、敢えて忘却して先に進むことも必要なのかなぁとは思います。

    それにしてもSm氏がここから全〇癖になったという話は、にわかに信じられません。

  7. エアホルモンありがとうございました。いよいよ来月にはリアルホルモンという事で、WBC同様血がたぎります!!
    12年前、自分の執務室の2方のガラスがX字になり砕け散り、白金台から豊洲まで歩いて帰りました。今も自分は色々な人のおかげで生かされているのだなあと思います。

    日々の平穏な暮らしにも感謝する今日この頃です。

    1. 震災当日はまだ青い青い中学生。
      マセラティだけでなく、アルファロメオやフィアットすらよく分からない年頃でした。

      当日はいつもよりも早く授業が終わり、早めの部活動をしていました。
      体育館で準備をしていた時に、あの地震が来ました。
      はじめは普段の地震だと思って気にも留めませんでしたが、なかなか揺れが収まる気配がなく、むしろ強くなる一方だったので、とっさに裏の駐車場まで逃げ出しました。
      今まで感じたことがない強い揺れ、体育館の筋交やガラスがバタバタ暴れている様子を見て、このまま地球が終わってしまうのかとすら思って怖かったです。
      何より奇跡だったのが、体育館の耐震補強工事が終わった直後だったからです。
      当時の時点で築およそ50年の建物だったので、もし工事が始まる前に発生していたらと考えると、本当に恐ろしかったです。

      この他、この時期の記憶は今でも鮮明に覚えているものが多くあります。
      平凡に見える日常や楽しい趣味など、日々こうして生きていることが本当に幸せなことなんだなとしみじみ思います。

  8. あの日からしばらくの出来事は、現在までの人生設計に大きく影響しています。現在の住処を求めたのも、せめて手の届く範囲での生活基盤確保を、と考え始めたことの、一つの答えでした。

    条件がシビアであまり発電しない太陽光パネル、荒れたままの庭など未整備の部分もまだまだありますが、課題をクリアするたびに、あの日々に露わになったことへの答えを得ていると思うのです。

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