お気軽、歴史探訪(その2:完結篇)

 夕方に千葉拙宅から東京の仮住まいまで舞い戻って来たんですが、しろラムちゃんから降りたら、余りの寒さに震えアガっちゃいましたヨ(泣笑)。東京、寒いっすねぇ。車中で聴いてた沖縄のラジオ番組じゃ、10℃切ったら超絶極寒扱い(笑)なんで、裏山しーったらありゃしないよなぁ。

 さて、本日も昨日からの続きでっせ・・・

ソッコーでググってみたら、意外と近くに在ったのね・・・
「松竹興業株式会社」なんて彫ってある。理由はアトで分かりました。
「義民宗吾様の菩提寺」とあります。
此処は、鳴鐘山 東勝寺という古刹。開基は桓武天皇の時代と云うから相当古い。
ソコにお墓があるのは、後世の経緯に拠るらしいです。御線香を立てて合掌。
佐倉惣五郎(本名を木内惣五郎)は、一般的に佐倉宗吾とも呼ばれてる人物です。
身代り地蔵尊。
二百五十年遠忌供養塔の碑。
お土産モノ屋さんが居並ぶのを左手に見ながら、立派な山門へ。
ホントは、結構境内にはヒトが居たんですが、上手く撮れたヨ、境内が。
アチコチには、先週降ったらしい雪が残っておりました。
江戸では虎屋だケド、成田じゃ米屋(よねや)。関東圏でメジャーな廉価版羊羹。
此処の節分祭も興味深いなぁ。
「宗吾霊堂」の名称から、小さな御堂と石碑が一つみたいなのを想像してたら・・・
広いし古いし、建造物は超立派なのに驚いた。
本堂前でも御線香を立て、懇ろにお参りいたしまして・・・
こうして拝見いたしますと、なんと云うか、華やかな雰囲気がいたします。
「奉納 金壱百萬圓也」がズラーっと。スゴい!
「燈籠建立 天水桶再建三十五周年 奉祝 天皇陛下御在位六十年記念」の碑。
・・・なんか梵字。ウルトラサインかも(笑)。
石で出来た塔婆なんですって。ドコか千葉県内の別の場所でも見たなぁ。
宗吾霊宝殿。此処とね・・・
宗吾御一代記館。・・・此処は共通入場券。JAFカード割引で500円ヨ。
なんか、いきなりお人形さん方がお出迎えデスが・・・
等身大人形66体で13場面構成。今度時間のある時には入ってみよ。
「佐倉義民伝」って、こんな歌舞伎演目もあるのか・・・観てみたい。
「佐倉義民伝」って歌(音出ます、注意!)も(笑)。
この立派な庭園は、篤信家からの奉納だと云う。スケールがデカいな。
「あの石碑はナンだろ・・・」
近付いて見たケド読めまへん。
福澤諭吉翁がどーのこーのと。成田三田会だしな。
コレはまた、比較的新しかろう御堂が。
奥之院だそうです。
本堂の側面を右手に見ながら歩けば・・・
宗吾殿(そうごでん)が左手に在ります。
1803年に宗吾霊の百五十回忌が行われたあたりの創建らしいデス。
石碑を眺めながら一服を。今どき喫煙所がアチコチに在るのもステキ。また来よ。
お土産にと、節分用の豆を手に入れてまいりました(喜)。「さ、時間だヨ!」
10分後、いっつも駐車場が一杯で入れないお店へ開店時間前の一番乗り。
まぁ、ちょっと小洒落た町の定食屋さんと云った雰囲気ですが・・・
定刻の11時半までは、到着から25分。寒風が身に凍みるゼ・・・
ようやく店内に。ミックスフライも捨て難いし、ハンバーグもイイなぁ・・・
初めてなんで、「迷ったらコレ!」的なお奨めメニューで行っとこ。
イイニホヒを嗅がせられつつ待つコトも、また楽し。「・・・ハラ減った」
とりあえずノンアルで乾杯!しておきましょ。
刻んだ茹で卵がタップリ入ったコロッケ×2が載ったカレーが登場。超旨し!
コレでも「ご飯減らして!」ってオーダーしたのに、このボリューム感!
レトロな装飾も和みます。懐かしい丸ノ内線ブリキじゃのぉー。
ハラ一杯で拙宅前に・・・「おー、凍ってる!」
あ~あ、あおちゃんがスッカリくすんじゃってる(グスン)。
庭にも雪が。あー、先週からの寒波はキツかったなぁ・・・

 成田市観光協会の公式サイトに拠れば、「宗吾霊堂は、宗吾様の名で親しまれる古刹で、9月第一土・日の御待夜祭や紫陽花名所として知られています。開基は古く、桓武天皇の時代に征夷大将軍・坂上田村麻呂が、房総を平定した時に戦没者供養のために建立したと言われています。」さらに「正しくは、鳴鐘山東勝寺といいます。成田といえば新勝寺が先に思い浮かぶかと思いますが、新勝寺は東勝寺より新しい寺という意味で、この名がつけられているのです。」と云うコトで、御寺自体はたいへん古くから存在していたらしいのです。

 また「日本の墓(著名人の墓)」と云うサイトには、佐倉惣五郎についての解説があり、「彼についての資料は、確実なものがほとんどない。後代の人によって作られたものが多く、実在の人物ではないという説まで出たことがある。とはいえ、いくつかの伝説をはじめ、講談や芝居で語り継がれてきたように、義民の代表格である。当時の印旛郡佐倉藩主は堀田正信。百姓たちは重税にあえいでいた。困窮した彼らは、先祖伝来の田畑を売り払い、離散する者も出たという。租税はますます重くなり、百姓一揆を計画するまでに追い詰められた。その指導者が佐倉惣五郎である。まずは江戸屋敷に訴えたが顧みられず、次に老中に駕篭訴するも下戻しとなり、ついに将軍・家光に惣五郎が単身直訴。その願書は、堀田正信に下げ渡された。正信は減免を命じ、家臣に責任を問うたが、家臣は惣五郎一人に罪を着せ、夫婦と幼い男子四人を極刑にしたという。夫婦は、我が子が殺されるのを見た後、磔刑になった。数年後、堀田氏は没落。惣五郎夫婦のタタリと言い伝えられている。墓はいつ頃からか鉄格子の門で閉ざされている。見事な多宝塔の墓は、後世に誰かが建立したのであろう。」

 その将軍直訴に向かう途中で、昨日御案内した甚兵衛渡しの逸話が生まれたというワケで、渡し舟の甚兵衛翁も義民として尊ばれていたんですね。幾重にもドラマ性があるハナシなんで、講談や浪花節、歌舞伎の演目にもアレンジされ、有名なスポットとなった様子が窺えました。有名歌舞伎役者の植えた記念樹や松竹(歌舞伎座を擁する)の名前が彫られた壁石にはそういったワケが在ったんですね。

 宗吾霊堂の周辺は、極く普通の住宅街なんですが、地名も成田市宗吾とか宗吾台って云うんです。また、京成線の宗吾参道駅からも徒歩10分ホドです。成田空港への道すがら、ちょっと途中下車して立ち寄ってみるのは、旅の行き帰りに面白いかも知れません。

 ホントは、いつも通りすがりで気になってた洋食屋さんの開店時間を待つ間の時間調整に立ち寄ってみたダケなんですが、以前(30年位前:笑)から「案内看板がアチコチに在るのに一体ドコに・・・」と思っていた宗吾霊堂にようやく相まみえたのは、縁ある渡し舟甚兵衛翁のおかげですかね。美味しいランチにも一番乗り出来てヨカッタです。成田、酒々井、佐倉・・・まだまだ千葉県内北総地域にも、探検の余地は多々残されているようです。目の黒いウチに回り切れるかなぁ・・・

 それじゃー、また明日。

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4 Replies to “お気軽、歴史探訪(その2:完結篇)”

  1. 宗吾参道駅近くの宗吾霊堂ですね。
    昔、夜中のドライブで成田付近を走った時に通りました。夜中だけあってか、なかなか独特の雰囲気を醸し出していました。

    洋食屋さんのかわいらしい外観に懐かしさを感じるインテリアやメニュー、たまにはこういう味のあるものを食べてみたいです。

    丸ノ内線の500形電車のブリキのおもちゃもなかなか乙です。
    赤い車体にサインウェーブ、このデザインこそ丸ノ内線ですね。
    一部の車両はアルゼンチンに渡り、活躍した後に中野の車両基地に里帰りした車両もいますね。

  2. なかなか行けない宗吾霊堂、なかなかの穴場です。
    堪能させていただきました。
    ご自宅の雪の残像にびっくりですね。

  3. ご近所に日本の原風景が。
    街の洋食屋さんも、最近は少なくなりまして。
    歴史探索と街洋食、なんだか贅沢です。

  4. 「正しくは、鳴鐘山東勝寺といいます。成田といえば新勝寺が先に思い浮かぶかと思いますが、新勝寺は東勝寺より新しい寺という意味で、この名がつけられているのです。」、なんで新勝寺なのかなと思ってましたが、そうだったんですね。

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